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沿革

南部紫根染・南部茜染復興年譜

藤田謙編・「南部紫之由来」より抜粋

【註:囲みの部分 及 昭和12年(1937)以降は二代目勉が加筆した。】

南部紫根染研究所時代

大正5(1916)年10月10日

岩手県染織試験場内に於て、南部紫根染の研究に着手す。

第一次世界大戦により海外からの資源の輸入が困難になるとの見通しのもと、国内資源の見直し運動の一環として、南部紫根染復興のことが岩手県知事大津麟平氏の主唱により取り上げられ、南部紫根染研究所が開設されたもので、当時の岩手県勧業課長は筆者の祖父の従兄弟に当る藤田萬治郎氏で、その様な関係もあって京都で染色の研修中だった草紫堂初代・謙【当時27才】が主任として招聘され、研究に着手するのだが、盛岡にはすでにその技法を伝える人が絶えて居り、明治維新まで藤田家が知行地として鹿角郡柴内村【現鹿角市柴内】を南部家から拝領していた、その様な縁故もあって、秋田県花輪地方【現鹿角市花輪】にかろうじて残って居た、21代前の祖先から紫根染・茜染を家業として営んで居られた、かなりご高齢の小田切猪太郎氏他1名の方に一年間盛岡に来てもらい、その技法を伝授された。

花輪で”鹿角紫根染・茜染”の伝統の技法を受け継いで居る栗山家は藩政時代から続く呉服屋さんだったと聞いているが、文一郎氏のお父上文次郎氏が紫根染をやろうと思い立ったキッカケは、職人さんが殆ど居なくなり、しかも残っていた方も老齢化し、このまゝでは奈良時代から伝えられて来た伝統の技が絶えてしまうことを心配し、大正7(1918)年自ら職人さんからその技を習い、自信を持って染められる様になる迄には10年の歳月を要した【平成4年か5年頃のNHK朝のテレビの文一郎氏のお話し】とのこと。一方その始められた年が、石井博夫氏の「平安の香気」【昭和49(1974 )年8月北鹿新聞所載】では大正2(1913)年となっているが、文一郎氏のNHKテレビでのお話を聞いた時、『父の方が兄弟子なんだな』と思いながら聞いた記憶が今も鮮明に残っている。大正2年文次郎氏が独自のお考えだけで保存を決意されたと考えるよりも、盛岡での復興の動きを知って、職人さんが花輪に戻って来た直後の大正7年と考えた方がより現実的ではないかと思はれるが、どなたかNHKテレビをご記憶の方、又は真相をご存知の方が居られたら、ご一報戴けたら幸甚です。

大正7(1918)年5月

中津川沿岸なる盛岡市大字加賀野第一地割字春木場に工事中の、新築工作場竣工せるを以て、研究所を同所に置く。
藤田謙氏之れが主任たり。

中津川に於ける布晒し

明治維新で中断していた紫根染の再興を計り、当時の大津鱗平知事の主唱に依って、盛岡の老舗、糸治の中村治兵衛氏が経営主となって、市の中央を貫流する中津川畔に紫根染研究所が設立され、父が主任技師としてこの仕事に携わるようになりました。当時の中津川での布晒の風影で、媒染に入る前、白生地の不純物を取り除くために行なっていた行程と思われます。

下染め風影

布晒しを終えた布に媒染液を浸し、乾燥しているところです。夏場の晴天の日、何十回もこの工程を繰り返します。右に立っているのが私の父です。

染工場内部

染工場の内部。後の木の柱のようなのが、水車式の紫根破砕用の石臼、中央後に立っているのが私の父です。
紫根の色素は水に難溶性で、かつ高温に依り黒変しますので、このような石臼を用い紫根を破砕し、熱湯で色素をもみ出し染浴を作ります。従って濃い染液が得られませんので、このような行程を1時間毎に同じ紫根を用い、10数回繰り返し、染め重ねて行きます。父はこの破砕機で特許を取っております。

現在の風景

布晒しをしていた場所と思われる、文化橋と山賀橋の間の川原です。中央公民館のすぐ近くです。

大正8(1919)年~13(1924)年~昭和10(1935)年

南部無名塗のお盆

  • 大正8(1919)年 藤田式絞機考案【実用新案1368号】
  • 大正11(1922)年5月 藤田式紫根破砕機【特許第74387号】
  • 大正13(1924)年6月 藤田式苛性アルカリ下染法完成
  • 昭和10(1935)年5月 紫根染布帛及茜染布帛利用に出発して一般染織布帛応用の布張模様漆器【無名塗】を発明【特許117391号】

苛性アルカリ下染法【紫根色素と白生地を結び着ける仲だちをする】の完成により布の硬直を防ぎ、繊細な絞り加工が可能となり、皺になりにくく、絞りのシボの取れにくい、”南部しぼり”の基礎を築いた。

大正11(1922)年3月

平和記念東京博覧会に際し、紫根染各種に対し、褒状を受く。
皇后陛下同博覧会に行啓、紫根・茜根染分け羽二重を御嘉賞あらせられ、御買上の栄を賜う。その染方は当時始めて成功したるものなり。

大正11(1922)年~昭和5年

大正14年
仏国巴里萬国装飾美術工芸展
銅賞記念盾

  • 大正11(1922)年10月 農商務省第10回工芸展にて褒状受賞す
  • 大正13(1924)年11月 農商務省第11回工芸展にて3等賞受賞
  • 大正14(1925)年3月 仏国巴里萬国装飾美術工芸展にて銅牌受賞
  • 大正14(1925)年10月 商工省第12回工芸展にて壁掛は褒状受賞、宮内庁御買上を蒙り、クッションは2等賞受賞す
  • 大正15(1926)年9月 商工省第13回工芸展にて3等賞受賞
  • 昭和2(1927)年9月 商工省第14回工芸展に無鑑査出品を許さる
  • 昭和3(1928)年10月 第15回工芸展にて褒状受賞
  • 昭和5(1930)年5月 白国リヱージ産業科学萬国博覧会にてブロンズ優賞を受賞。

但し当時の展覧会の規定では、出品者名は作者ではなく、経営者でもよかった為、受賞者の名義も社主の中村治兵衛氏【貴族院議員】となっている。この展覧会は後、日展第4部となって現在に続いているが、同期には戦後人間国宝となられた加賀友禅の木村雨山先生や、後年芸大教授、日展の審査員も務められた、漆芸の六角紫水先生も居られ、両先生と並んで図鑑の巻頭に飾られていた。木村先生とは亡くなられる迄親交があり、毎年、年賀状のやりとりをしていた。”南部しぼり”の基礎を築いた。

大正13(1924)年5月

皇太子殿下、御成婚奉祝の為、紫根染・茜根染、染分けクッション1個を献上し、御嘉納の栄を賜る。

この時、献上品献納のため、紫根染研究所社主中村治兵衛氏(貴族院議員)、仝所長中村省三氏の随員として主任技師藤田謙も赤坂の東宮御所に参内し、残念ながら殿下はお風邪気味で拝謁の栄は得られなかったものの、晩年になる迄よくこの思い出話しをしていた。

昭和3(1928)年10月

天皇陛下陸軍東北特別大演習御統監の為行幸の砌、地方物産展示場に展示してある作品の中から紫根絞染・茜根絞染クッション1組御買上の栄を賜る。

展示会場で一旦はお諦めになられたものを、夜御宿舎に入られてから『ひる見たクッションを今一度見てみたい』と仰せ出され、紫根染研究所々長中村省三氏が伺候し、お買い上げ戴いたもので、初代謙の話では高松宮様への御成婚記念にどうしても差し上げたかったのではないかとのこと。ちなみに値段は当時としては破格の300円だったとのこと。

昭和8(1933)年1月

藤田謙、南部紫根染研究所を辞す。

中村家は代々旧岩手銀行を主宰して居たが、昭和初期の経済パニックのあおりを受けて銀行は倒産してしまい、この様な経済混乱の中で、紫根染研究所社主中村治兵衛氏【此の頃は省三氏が家督を相続し、治兵衛を襲名していた】との運営上の問題での意見の相違もあった様で、給料3ヶ月分も受け取らぬまゝ退職し、研究所も間もなく閉鎖となっている。

草紫堂主 独立後

昭和8(1933)年5月

盛岡市紺屋町130番地に工場並に店舗、草紫堂を開き、紫根染の製造販売をなす。

開店当時の草紫堂

独立に際し、当時の岩手県知事石黒英彦氏の紹介も空しく、旧岩手銀行、旧盛岡銀行を引き継いだ、半官半民の岩手殖産銀行【現岩手銀行】からの融資も断られ、二人の友人のご好意によって無利子、無担保で私財による1,000円の融資を受けて開業した。

石黒知事からは開店に際し、『清明為藤田君英彦』の揮毫額を贈られている。又開店の前日の朝早く、突然閉っているカーテンを潜り抜け、盛岡市長大矢馬太郎氏が、「ヤー、開店は明日だったか」とおっしゃりながら『春夏冬五合』と書かれた色紙を持って御来店になられた。当時小学3年生だった私が、「ずいぶん市長さんもあわてんぼうだね」と言うと、父は諭す様に「イヤ、市長さんは”開店の前日に暴れ馬が飛び込んで来ると、その店は繁昌する”との故事に則っとっていらしたので、”春夏冬”とは”秋無い”つまり”商い、”五合”は”半升”つまり”繁盛”と言う意味なんだよ」と教えられたことを、今でも鮮明に覚えている。
■父が自分で書き、自分で彫り、自分で塗って仕上げた木彫りの看板で、何事も人任せに出来ない、工夫しながら自分でやってしまう性格でした。この仕事に就いてからも、特許2つ、実用新案1つを取りましたが、特許庁に提出する書類も全部自分で工夫しながら書いたことを1つの自慢にしておりました。

昭和9(1934)年4月

商工省第21回工芸展覧会に『鯉魚文紫根染卓布掛』を出品し、褒状を受く。

この展覧会は、こののち間もなく純粋美術の日展と合併し、日展第四部として現在に続いている。
以後、経済的、時間的制約から作家活動は断念し、国内産業展、博覧会等では、中小企業庁長官賞の他、1等4回、2等12回、3等、褒状20数回、受賞している。研究所時代は、毎日曜日毎に冬の寒いさ中でも、大きなキャンバスを担いで、降り積もった雪をかき分けても山王山の上に登って、好きな絵筆を楽しんでいたのに、独立後はそれさえ出来ず、ごく晩年になって次のような歌を残している。

“たまさかに 彩筆(ふで)とらんとすれば 悲しもし
絵具かたまりて 蓋やとれずも”

昭和11(1936)年11月

岩手県より秩父宮殿下献上品として、羽二重紫根染並に茜染の謹製方を命ぜられる。

昭和12(1937)年~26・27(1952)年頃【絹製品の統制が解ける迄】

日支事変直前の頃、東京・日本橋高島屋で開かれた岩手県物産展に、新作100柄の南部紫根染、茜染の製品を出品、特別に一室を提供されて、陳列し、大好評を博した。

父謙は、当時の高島屋店長、古瀬さんから特別に赤坂の料亭に招待され、全品買い取って戴いた他、戦時統制下、技術保存として配給になった品物も、統制が解ける迄全品買い取って戴くことが出来、戦中戦后の苦しい時代を乗り切ることが出来た。

昭和20(1945)年4月14日(?)のアメリカ大統領死去の報復爆撃は赤羽一帯を襲い、丁度その時筆者は海軍技術見習尉官として千葉県稻毛にあった軍需省アルコール燃料研究所に研修のため徳山から上京し、中野にある親戚の家に寄留して居たが、翌朝夜が明けてから、父と姉が大きなリュックを背負って眞黒な顔をして辿り着き、リュックの中身は高島屋に納める品物で蕨駅から線路づたいに歩いて来たとのこと、この時は既に日本橋一帯は焼野ヶ原となって居たが、こんな時期にでも何も言はずに黙って引き取ってもらっていた。戦後復員してから父の代理として高島屋を訪れた時、呉服部長の鈴木さんから「京都の技術保存の業者のものでも委託販売で、全品買い取りをしているのは、お宅だけだ」とのお話も伺っている。

昭和20(1945)年12月

戦後の食糧危機を救うため、全国の手工芸品を東京に集め、ニューヨークの一流デパートのデザイナー、バーチエ大尉【女性】により輸出向工芸品の選定会があった時、染織部門で出品数7~800点位の内、7~80点位選ばれた中に、草紫堂の”南部紫根染・南部茜根染”染め分けの壁掛及テーブル掛2点が選ばれニューヨークに展示された。

以後、イギリス・フランス・ドイツ始め、パキスタン・エジプト等から17~8通もの引合いが送られて来、ドイツからは織物と間違えたのか東京オリンピック直前まで、英語とドイツ語で書かれた分厚い織機のカタログが毎年送られて来た。しかしいづれも引き合いの数量、單位が余りにも大き過ぎて、要望にお答えすることが出来ず残念であった。

昭和33(1958)年~平成4(1992)年

  • 昭和33(1958)年4月 初代謙、”黄綬褒賞”受賞。
  • 昭和40(1965)年11月 初代謙、”勲六等単光旭日章”受賞。
  • 平成4(1992)年11月 二代目 勉”黄綬褒賞”受賞。
■勲六等単光旭日章を受賞した時、宮内省の前で、父と母が記念に撮った写真です。
■昭和44(1969)年、店舗改築

昭和45(1970)年10月

岩手国体ご臨席のため御来盛の砌、天皇・皇后両陛下に、鉄器の鈴木盛久氏【後無形文化財指定】、漆器の佐々木誠氏【秀衛塗】、仝古関六平氏【後岩手工芸美術協会々長】等と共に、工程実演並に作品の天・台覧の栄を賜る。

昭和45(1970)年11月

岩手国体後に開催された、パラリンピックご臨席のため御来県になられた皇太子同妃両殿下より、御出発に先立ち天皇・皇后両陛下に御挨拶のため参内された際、皇后陛下より『岩手に行ったなら紫根染を見て来る様に』とのお言葉があったとのことで、一関にお着きになられて直ぐ県の係の方に申し出られ、連絡を受けて急遽お宿舎の盛岡グランドホテルの一室に紫根染・茜根染の資料並に作品を特別展示し、記者会見を済まされてすべての公式行事終了後の午後8時半から9時半過ぎまでの1時間余に亘り、工程その他の御説明を申し上げる光栄に浴した。

その際、紀宮様御用として、”南部茜根絞染瑞雲文様”着尺地一巻、お買上げの栄を賜り、尚美智子妃殿下より、秩父宮妃殿下への御返礼の手作りの文箱にお貼りになりたいとのお言葉で、僅か1m程の小切れであったが、昭和11年秩父宮様に”夫婦のお布団地”として献上申し上げたのと同柄の”菊花文茜根絞染”の小切れ1枚、献上申し上げた。

昭和49(1974)年5月

第25回全国植樹祭御臨席のため天皇・皇后両陛下御来盛に際し、岩手県より献上品製作の委嘱を受け、特に”植樹文南部紫絞染絵羽着尺”を謹作し、献上申し上げた。

これが父謙の最後の作品となった。

平成5(1993)年2月

世界アルペンスキー大会御臨席のため秋篠宮同妃両殿下御来県の砌、秋篠宮紀子妃殿下に”南部紫絞染宝相華文着尺”一巻献上の栄に浴した。

その際、妃殿下は展示してある弊堂の参考展示品に御興味を持たれ、他の展示品を台覧中の殿下のお傍を途中から離れられて戻って来られたので、約15分もの間直接、御説明申し上げ、私の著書”まちづくり・ものづくりへの視座”他数点も献上申し上げた。

平成6(1994)年10月

「国際ボランティア・フェスティバル御臨席のため御来盛の砌、紀宮様に”南部紫根絞染菊水文”着尺一巻献上の光栄に浴した。

平成8(1996)年10月

皇太子同妃両殿下御来盛の砌、”南部紫根絞染・南部茜絞染どくだみ文クッション”一組献上の栄に浴した。